東海道の名物茶屋として賑わい力餅を売っていました。店主が長崎から持ち帰ったサボテンが、江戸末期には高さ3.5m位のものが5株あってサボテン茶屋と言われていました。明治44年(1911)の大火で焼失し、今は茶屋跡として洋菓子店エスプランの外壁に石碑が建てられています。
大祖堂
曹洞宗の大本山。鎌倉時代に瑩山(けいざん)禅師によって能登国(石川県)に開かれましたが、明治31年(1898)の大火で焼失し、明治44年に現在地に移転しました。千畳敷の大祖堂(たいそどう)の大屋根は、区内外の各所から見られ鶴見の象徴となっています。
仏殿と初詣の列
15万坪の広大な敷地(横浜球場の約20倍) に、仏殿、大祖堂を始め50余の堂塔が豊かな緑の中に配置され、四季を通じて散策に訪れる人も数多く見受けられます。宝物殿には重要文化財をはじめ、1万余の寺宝が納められています。また、墓地には石原裕次郎をはじめ有名人の墓も数多くあります。
東福寺仁王門
平安時代に、勝覚僧正によって開かれました。江戸名所図会にも画かれている大きな寺でした。参道入口の芭蕉の句碑をはじめ古い道標などがあり、当時の面影を偲ぶ事が出来ます。仁王門には「子生山(こいけさん)」の額がかかっており、境内には子育て観音があります。↓いぼとり地蔵
花月園競輪場は横浜市内唯一の公営ギャンブル場で、勝負を分ける海風が名物。GⅠレースも行われ、日本が生んだ世界のケイリンを支えています。大正3年(1914)から昭和14年(1939)までは東洋一の大遊園地たる『花月園』。子供たちが大喜びした数々の遊具や紳士淑女のダンスホールも今は夢の跡ですが、桜の花は、鶴見の丘に轟く歓声を、今も変わらず包み込んでいます。
御菜八ヶ浦の1つとして、江戸城に魚を定期的に納め、江戸中期から幕末にかけて大層賑ぎわいました。1828年には、生麦村242軒の内 60軒が漁業をしていました。明治の末頃から魚貝類を商う店が出始め大正から昭和初期にかけては、魚貝類を天秤棒で売り歩く「ボテフリ」さんが、600人もいました。
正泉寺の亀地蔵
江戸時代初期に創建されました。参道入口には、鶴見で一番古い地蔵様があり、又境内にある亀地蔵が有名です。地引網にかかった大きな海亀を竜宮に帰そうと、酒を飲ませた日が亀の万年日にあたったのか死んでしまいました。漁師達はこの墓碑を建て供養しました。
道念稲荷社
道念稲荷社は、道念和尚が、旅の途中で当地に立ち寄り建てました。原の神明社の境内には、阿弥陀如来立像、弁財天道標などがあります。横浜市無形民族文化財に指定されている「蛇も蚊も祭り」の蛇形作りが、各々の境内でおこなわれます。
生麦神明公園の蛇型
数百年前から伝わる雨乞い、厄病退散や子供の成育などを祈念する行事です。毎年6月には、2つの蛇形が、「蛇も蚊も出たけ、日よりの雨け、ワッショイ、ワッショイ」と町内を練り歩きます。原の神明社に隣接する公園には、蛇形の造形物があります。
文久2年(1862)8月21日、馬に乗った 英国人4人が川崎大師に行く途中、事件が起こりました。薩摩藩行列が接近した時、4人が行列の中にそのまま馬を進めたため、無礼を働らいたとして警護の武士によって 殺傷されました。その場所に、近年浅海武夫氏によって説明板が設置されました。
英国人4人の内、リチャードソンは、ここで 落命しました。 この碑は、明治16年(1883)に黒川荘三氏によって建立されました。また、生麦事件についての資料150点余が、生麦駅近くの私設の「生麦事件参考館」(浅海武夫館長)に 展示されています。
明治3年(1870)、アメリカ人コープランドにより、横浜山手に日本初のビール醸造所が開かれ、後に麒麟麦酒となりました。関東大震災後、この地に工場が移転しました。ビアビレッジは平成3年にオープンしました。県指定の緑化モデル工場の四季折々の緑と花を楽しみながら飲む、出来立てのビールの味は格別です。
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