剥き身を取った貝殻が堆積して美しい岸辺となった貝殻浜です。岸辺に残る杭が往時の漁港を偲ばせ、水鳥が憩い、潮の香が漂うのどかな水辺となっています。5~6年後には河口(80m程川下)迄堤防が完成し、新たに人工干潟や広場が出来る事になっています。
旧生麦漁港跡
昭和2年(1927)に、正泉寺から現在地に移り、豊漁、安全操業を守る生麦漁師の氏神様です。毎年正月2日の朝、漁師が集まり、豊漁と安全を祈願し、河口の沖合に船を出し「乗り初め」の神事を行っていました。この神事も昭和45年(1970)に廃止されました。
江戸時代よりお菜八ケ浦の一つとして350年繁栄してきた漁港でしたが、沿岸の埋め立てによって、昭和48年(1973)に漁業は消滅しました。明治の末頃から魚介類を扱う店が増えはじめ、生麦魚市場が誕生しました。約80軒の店がありそのうちの半分はかっての漁師さんのお店です。
生麦魚河岸通りにあり、魚や貝の調理道具が揃っているお店です。270年以上続く家系で現当主は14代目。当初は裏庭で鶏を飼い、卵を売り、併せて団子などの菓子なども揃えていましたが、30年前から今の商売になっています。
昭和5年(1930)に開業した、高架駅の中に「臨港デパート」が入ったモダンな駅でした。現在も開業当初からのままの姿で残り、売店の跡や,昭和20年(1945)の空襲で炎上した時の煤で天井や壁が薄暗くなっています。このレトロの雰囲気は、テレビや映画のシーンにも登場しています。
明治43年(1910)に完成。当初は有料橋だったが、大正5年(1916)に浅野総一郎が買収し無料となりました。この橋で潮田と鶴見の結びつきが強固になり、その後の臨海部の発展にも大きく寄与しました。また、潮見橋から臨港鶴見川橋近くまでの川沿いに、浅野侯爵が建てた豪華な別荘がありましたが、明治44年(1911)の鶴見大火で焼失してしまいました。
江戸時代後期から、明治43年(1910)まで渡し舟がありました。船頭は世襲制で、一日中運行していました。明治時代には一度に30人と荷車5台を乗せて運びました。潮見橋が出来たので廃業しました。
工業地帯と鶴見の中心部を結ぶ橋として昭和 16年(1941)に完成。太平洋戦争から戦後の復興期に、京浜工業地帯の物資輸送の大動脈となりました。一つの橋に見えるが、二つの橋から出来ています。昭和63年(1988)に旧橋の隣に新橋が完成しました。
現在のアーチ型の橋は平成9年に完成しましたが、この橋の歴史や地域性を考慮して作られました。すでに鎌倉時代末期の絵図に描かれている橋ですが、江戸時代に整備され、鶴見橋とよばれていました。左岸の橋のたもとあたりは名勝の地として、絵や日記に残されています。又、「米まんじゅう」を売る店が軒を連ねて、鶴見の名産物となっていました。
江戸末期の1860年に、不審な者を取締るため、ここに関門が作られ、さらに2年後には、番所が併設されました。江戸時代、この場所は交通の要所で、小杉道、寺尾道への起点でした。又、民家が三軒あったので三家(さんや)と呼ばれていました。
明治末期には総持寺建設資材の陸揚げ場として使われました。昭和23年頃(1948)までは鶴見川の湾曲部の一つでしたが、昭和25年頃から川の直線化の工事が始まり、同54年(1979)に完工し公園として整備されました。近年防災対策の役割が追加されました。また、いかだフェスティバルや鶴見川花火大会の拠点となっています。
鶴見川流域に多い杉山神社の一つで、創建は1400年前の推古天皇の時代です。明治6年(1873)村社となり、大正9年(1920)に鶴見神社と改称しました。昭和37年(1962)に境内から弥生式土器が出土、この神社の神輿は長柄の鎌がついた珍しいものです。毎年4月29日に行われるその年の豊作を祈る「田祭り」は有名です。
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